笑い上戸

「箸が転げてもおかしい」という時期がありますよね?ちょうどお春がそんな時期です。

もうあまり記憶に残ってないけれど、自分自身がそんな時期だった頃のことを思い出すと、安心していたんだなぁと思います。母を見下し、父に反発しながら(<思春期の子供にありがち)、守られて安全であることを無意識に疑っていなかった。大人の庇護がなくなって、「世間の風ってつめてーなぁ」と、ちょっと、泣いてみたりするのは、まだ、ちょっと先のこと。

笑い転げるお春を見ながら「あなたは安全だと思ってくれてる?」と感傷的になってみたり。もうちょっとだけ、そうやって笑っていてください。(<いずれ大人になってもらわんとかなわん、というのは、当たり前の前提だぞよ。)

※ちなみに話題は風林火山でコッペパン。

なんで私の気持ちをわかってくれないの!というのは?

まっとうな理屈の通じない女性と良好な関係を築く方法 – 分裂勘違い君劇場

苦笑い。

二人しかいない空間では、どんなに正しい理屈をこねても、まったく不毛なのです。

これ(↑)は、まったくそうです。ほんとーに不毛です。
そもそも、論理や理屈を持ち出しちゃうあたりが、間違っているのではないだろーか。。。という意見もあると思います。

こういう事態に陥っているとき、彼女がこだわっているのは、すでに「論理」じゃなくてね、正しいかどうかじゃなくてね、「なんで私の気持ちをわかってくれないの!」という、叫びだと思うんだよね~。
こういうときに、懇々と「正しさ」を説かれたらキレます。(感情的に「正しさ」をぶつけられても、余計にキレるだけですが。)
彼女は、それが客観的に見て正しいかどうかは、もちろん、ぜんぜん気にしないし、主観的に見ても、正しかろうが正しくなかろうが、どうでもいい、という気持ちになっていると思います。

「正しさ」にこだわらず、そんなものは横に置き、気持ちを共有してやればよいの、だぶん。(いや、だから、「正しさ」なんて「そんなもん」なんだって。。。)「カタチ」ぢゃなくて「キモチ」なんだよぉぉぉ、と叫んでみる。

「正しさ」にこだわることを、やめたらいいのに。それを捨てられないのも、論理的じゃなく感情的、と言えるのではないだろーか、と、思わないでもないのです。「やーね、男って、感情的で。」(ほほほ)

そんでもって、気持ちをわかってもらえた、と感じた彼女は、利害はちょっと置いといてもいいかな、って思ってしまう、というのもあったりするかも、なのですね。損して得取れ、とも言うでしょう? ふたりだけの空間では、そういうアンフェアもあり、じゃないのかな。実利とればいいじゃん。(いつも、一方的にそれをやるのは、邪悪ですが。何事も、やりすぎはよくありません。)

・・・あぁ、だから、こっち(↓)なのね。

「おまえも空気の奴隷になれ」って?「空気読め」の扱い方次第で人生台無し

※そういや、この間、ムスメに「KY(空気読め)」と言われてキレた。生理前の紫野はサワルナキケンだ。
※勝ち負けなんか気にするなよ~。男らしさの幻想にとらわれていると滅亡するぞ・・・と。
※僕の正しさを認めてくれ、というのも、甘えなんだけど、それが可愛いと思えるかどうかは、相手によりけりだったりするし、普段の言動がモノを言う。ちなみに、紫野の場合は、「食べ物をくれる人は良い人」だ。(<それじゃ、甘えじゃなくて、たかり です。)
 

引き算、じゃなくて。

母方の叔母からお歳暮にみかんをもらったので、お礼の電話をかけた。
若い頃から「辛いときでもカラ元気」の元気な人だったが、最近どう?と様子を聞いてみると、あいかわらず、元気にあちこち動き回っている様子だ。

自分の実孫のほかに、近所の若夫婦(複数)の子供の面倒を見てやり、児童館でも子供たちの世話をしているそうだ。純粋な意味で子供好きかどうかを見れば、姉である紫野の母親よりも彼女のほうが子供好きだな、と思っていたが、好きなこととは言え、60過ぎて体力的には辛いこともあるだろうけれど、とても楽しそうに子供たちの様子を語る。

若い頃は、大家族の嫁、という立場の人だったが、どんどんと面倒を見る家族が減ってきてしまい、今は、元気をもてあまし気味だそうだ。

ダンナの両親といずれ同居するという暗黙の了解のもとに結婚することを決めたとき、紫野がお手本にしようと密かに思ったのはこの人だった。(実母は、姑との同居を経験していないので、そういう意味では役にたたない。)
結婚したことも、ましてや、姑と同居したこともない、未経験だった紫野の目からみても、辛いこともたくさんあるのだろうに(まぁ、彼女のお姑さんは、紫野の目からみても「・・・」な人だったのだ。)、カラ元気でも元気で、めげなくて、やたらとしぶとい(笑)人で、彼女のようにやってみようか、なんとかなるかも・・・と、思ったのだった。

紫野の決心がちゃんと形になったかどうかはさておき、電話で話していて思ったのだ。
欲しい、欲しいと思って、くれない、くれないと不満を持ち続けているよりも、いっそ、自分のためじゃなく誰かのために何かをしたほうが、もしかすると、心はずっと元気なのかもしれないと。

うまく言えないのだけれど、そういうもの(<どういうものだよ。)は、与えたら減ってしまうような、ちゃちな損得勘定で考える引き算なんじゃなくて、与えたら、それ以上に返ってくるようなものなんじゃないか、とね。

そういや、前々から思っていたが、紫野の母方の女性たちは、みな、一様に、しぶとい。楚々としていて、誰かにすがらないと生きていけないなんて、間違っても思えないような、たくましい女性ばかりだ。血筋なんだか、教育の賜物なんだか分からないが、そういう資質が、娘にも無事引き継がれるといいなぁ、と思う。

好きを貫いている者の礼儀

404 Blog Not Found:好きを貫いている者の礼儀

紫野は別に「好きを貫いている」わけじゃあないけど、ここで言われている礼儀というのは、よく分かるな、と思った。

誰かがやらなければならない仕事というものは、確かに存在する。それが為されなければ非常に困るが、自分がやるのはなるたけ避けたい、という類の仕事。賃金をもらえる類の仕事のなかにもソレは沢山あるけれど、それだけじゃない。たとえば、家庭内で為される家事、育児、介護なんかもソレだ。シャドウワーク (shadow work) という言葉がある。ま、この話は、置いておく(笑)

家事や育児も、家政婦とかメイドとか保育士、看護師、介護福祉士、ヘルパーという名前の賃金をもらえる労働として見ると、かなりの低賃金なんだよね、悲しいほどに。でも、これらの仕事って「心を尽くす」必要があるから、人間にしか出来ない部分がある。

で、「ありがとう」と感謝されることが、金銭とは別のモチベーションになっていて、これとか使命感とかで低賃金がごまかされているというところがあるように思う。(というか、絶対に、雇用側はそこにつけ込んでると思う。本人は「好きを貫く」ことになるのかもしれないけど、卑怯だよねぇ。でもさ、それが人件費であるということをサービスを享受する側が、理解してくれてないし、ついでに、正当な対価を落としてくれてないから、人件費を上げられない、というジレンマだって、きっとある。・・・そうは言っても、そもそもサービスを享受する側がお金を持ってなければ出せないんだけどね。ない袖は振れないから。)

そんでもって、その類の労働は、誰の目にも見えてないことがよくある。目に映っていても見えてない。だって、ちゃんと為されているのが「当たり前」だから。そのくせ、ちゃんとなってないと、超クレームがつくんだよね。

それでも、それほど理不尽な状況にありながら、それが「当たり前に」為されているのは、なぜなんだろう?と、せめて一度は真剣に考えてみるべきだと思う。そして「ありがとう」と言いいたい。その時間と労力を費やしてくれた誰かに。たくさんのたくさんの誰かに。いつも、いつも、ありがとう。わたしたちの世界を保ってくれてありがとう。心の底から。

そして、必ず自分も、その「当たり前」のために幾ばくかの時間と労力を費やすべきだ、と紫野は思う。それが「好き」なら言うことはないが、たとえ、それが「好き」でなくても、必ず、分かち持つべきだ。貰いっぱなしでいいのは、子供だけ。欠片も分かち持たずに他者から搾取するだけなのは、卑怯で、格好悪いと思う。

わたしたちの世界を保つために。次世代に引き継ぐために。誰もが、自分と、誰かのために、少しずつ。

飯食って寝ろ

さだまさしの歌に「前夜(桃花鳥)」というのがあって、そこには「明日の僕達の献立の事が気がかり」というフレーズが出てくる。疑いもなく常に、紫野はそっちの側にいるなぁ。。。と、今日、電車のなかで考えていた。

「うん、そうだね。そういうときは、おいしいご飯食べて、あったかいお布団に入って、寝なさい」という態度が、思春期から今に至るまでずっと変わらないでいるってのも、どうなんだろうなぁ。たとえ一瞬、疑いを持ったとしても、「でもね」と肯定してしまう。それが出来て省みないので、ともかくしぶとい。だから、身体も心も頑丈。そういうタイプが結果として生き残って多くの子孫を残してきたから、そういうタイプが世間には多いんじゃないかと(笑)

寝食忘れて考えたり、悩んだりしたら、壊れる。だから、食べて、寝なさい。子供たちにはそう言おうと思ってる。食べて寝た後でもリセットされずに、考え続けたり、悩んだり出来るのなら、それは才能だからね。まぁ、がんばってみなさい、ってか。

あと、まぁ、なんといいますか、ぐずぐず言う前に、自分のことをちゃんと面倒みろよ、というのもある。
たとえば、上記のさだまさしの歌で言えば、「分かってる」といいながら、キミは夕食を作ったりはしてないじゃないか、と、突っ込みたくなるわけ(ぐだぐだ言わずに作れよ。それから部屋を片付けて、子供を寝かしつけて、それから言うんだったら聞いてやる。) 「夕食は何にしようかな?」と考えているとき、そういうことは考えないんだよ、という話なのかもしれないんだ。同時に考えられる人もたまにはいるけど、紫野はダメ。向いてないみたい。でも、まぁ、天才というのは、常人と違って、偏ってるらしいからなぁ(笑)

まぁ、いいや、今日も、飯食って寝よう(<をい)

「好きを貫く」よりも、もっと気分よく生きる方法

「好きを貫く」よりも、もっと気分よく生きる方法 – 分裂勘違い君劇場

あぁ、極論っておもしろいですね。ブラックに笑わせてもらっちゃいました。

んーと、紫野は、好きを仕事にしたわけじゃないけど、嫌いな仕事はしてない、かな。現在の仕事は、金銭的な報酬はもちろん気に入っているけれど、非金銭的な報酬が気に入ってるから続いている。うん、これは自覚している。
いつも、楽しいばっかじゃないけどさ、でも、それが人生なのじゃない?

紫野は「自立した個人」というような「近代人」は、胡散臭いから嫌いなんだけどね、でも、ポストモダンも、どーでもいいの。そんなこと考えながら生きてないし、それ考えてると普通の人間は生きることが疎かになるからね。(<現実問題として、ムスメが宿題やらなくて寝ちゃったほうが大問題だしなぁ。)そんなのにハマルと抜け出せなくなるから、近寄らないほうが身のため、キケンだね、と思ってしまうのな。(でも、案外、そういうのが好きで俗物なんだってところが、ひどく矛盾していて、自分が好き。<うぇぇぇ。)

そういや、多幸症と言われようがポリアンナ的幸せが好きだし、相田みつをも好きだしなぁ。趣味の問題?(<違)

対象a

対象a – Google 検索

今クールの深夜アニメで、紫野が、唯一、まともに見ているのが「ひぐらしがなく頃に解」。そろそろ、物語は、最後に向けてスパートしております。で、そのエンディングテーマが「対象 a」。
いろいろと考えてしまうような、「語らせる」ような歌詞ですよね。つい、ひっかかって、つい、もろに語ってしまいそう。

ラカンの言う「対象a」なのか(だとしたら、「a」は「アー」なのかな?)、数学的に「対象a(と対象b)」)なのか、言葉としての「Object」に寄っているのか(日本語を母国語としている場合、「Object」というのは、あまり馴染みのない観念だと思うんだが。通常、あまり意識しないし。)とか、いろいろ。
結局、たぶん、これは、「風味」であって、ひっかけなんだろうけれど。

で、その流れで、「骨の先」が「白い」というフレーズについて、つまらないことをいろいろとと考えているわけです。
ただの骨じゃなくて、骨の「先」が白いってことに、こだわってしまうの。(<これだけじゃ、意味不明だな。)

・・・また、後日、このネタを出すかもしんないです。

腐女子のホンネ

緊急座談会:激白! 腐女子のホンネ (1/5) – ITmedia News

へぇ。やっぱり、カミングアウトは難しいのか・・・と。

紫野は、根っからの腐女子というわけじゃないけど、それにハマル気持ちは分かる・・・というぐらいのレベル。中学生の頃から「風と木の詩」を愛読してたりして(<だから、年がばれるだろーが)、年季だけは入っている(笑)? 時代、時代で、つかず離れずで、変遷を横から見てきたというスタンスかも。

でも、確かに実家に居た頃は、BLも読んでいることを公言してなかった。両親は今もたぶん知らないし、弟はきっと気づいてたろうけど、そのことを面と向かって話したりはしなかった。

ダンナは、たぶん、気づいてないと思うけど(でも、同人誌は、見ようと思えば見える場所にある。)、今は母親をただのオタクだと思っているムスメは、いずれ、気づくだろう(こっちも隠すつもりはあんまりない。)

実のムスメが、腐女子になるかどうかは、まだ未知数だが、オタクになるのは、ほぼ間違いなさそう。でも、腐女子になったとしても、笑って許してしまいそう。「笑う」っていっても、苦笑だろうけど。

イベントに子供連れて行くのはどうかと思うし、将来、ムスメが成長して、万が一お互いにカップリングが重なったとしても、一緒には行きたくない・・・かなぁ(<なに、想像してんだか。)

まぁ、密かに楽しむ趣味、ってことで。

「搾取しない」ということ

久しぶりの BSマンガ夜話で、五十嵐大介の「魔女」を扱っていたが、週末、その録画を見ながら、また、「持続可能性」のことを考えた。

このところよく何かにつけて「搾取しない」ためにはどうしたらよいのか?ということを、ツラツラと考えている。大人は子供から、子供は大人から、大人は大人から、子供は子供から、男は女から、女は男から、男は男から、女は女から、強者は弱者から、弱者は強者から。人間は自然から、自然は人間から、人間は人間から、自然は自然から。この世界に存在するもので、何からもモノを得ず、また何も与えない、ということは出来ない。ほら、紫野だって、ただ息をしているだけで、酸素を吸収して、二酸化炭素を吐き出している。

考えるのは「やりすぎない」ためのルール。「搾取しない」で済むために、「丁度よい」ところで止めるには、どうしたらいいのか?と言うこと。今の日本の世界は、今の身の丈にあった、「丁度よい」ところを、体感できてないように思うから。(かつての日本人が、それを体感できていたのかどうかは知らない。でも、300年も鎖国しながら、小さな世界のなかでそれなりに生きてこれた日本人が、体感していなかったとも思えない。「鎖国」といいながら、それでもやはり、「鎖国」ではなかったにしても・・・ね。)

過剰な情報、氾濫する欲望、喧伝される耐え難い痛み。ここに居て、流されずに立つのに必要なのは、何だろう? 取りすぎず、与えすぎないでいるために・・・どうすれば?

乗り越えろ。立ち向かえ。

こち駒~こちら世田谷区駒沢公園横の大学: 「世界に一つだけの花」だって努力はする

ちょうど、朝、電車のなかで似たようなことを考えていた。
何も努力をしないままで、「そのままの自分でよい」なんて安住はするな。立ち向かえ、と。

こちとら、今の年齢に至るまで、ついにお花を咲かせるまで行けてないテイタラクだが、毎日、家族を食わせていくために世の荒波に立ち向かわねばならないということは理解している。だって、これを止めたら、家族が路頭に迷う。

確かに、確かに、ほんとうに確かに「自殺するよりは引きこもる」ほうが健全だと思うが(それはもう、真剣に心の底から同意しているが<しつこい)、それでも、引き篭もりが許されていて飢え死にしないですんでいるのは、本人に引き篭もっていても自力で食える甲斐性があるのではない限り、食わせてもらえるという甘えがあるからだ、と思う。金銭的なことだけを言っているのではない。子供じゃないのだったら、せめて、家の中の雑事だけでも、自分で自分の面倒を見るぐらいのことはしながら引き篭もってみせろよ、と思ったりする、という話だ。(いや、まぁ、それが出来ないから引き篭もっているのだろう、とは思うが。無い袖はどんなにしても振れまいし。しかしなぁ、永遠に支え続けるというのは、無理なのだよ。共に沈んでもよい、と思えるかどうかは、人それぞれなんだろーが。)

もちろん、甘えることが、すべて悪いと言っているわけではない。誰かに甘えさせてもらわなければ乗り越えられない状況というものに陥ることがあるのは分かるし、実際に自分も陥ったから、そういうときに、一人で孤独にがんばれなんて言えない。生き延びるためには、存分に甘えなければならない。
ただ、(そういうときに選んでいる余裕なんぞないとは思うが、)掴まるモノを間違えてはいけない。下手をすると、いっしょに沈んで終わりだ。

ただ、たぶん、自分にとっては耐え難い不幸であったとしても、その程度の不幸なんて、ただの「どこにでも転がっている不幸」に過ぎない、と思うのだ。

その程度の不幸なんて、今も昔も、どこにでも転がっている。かつて、誰かが乗り越えた不幸に過ぎないのだ。甘えさせてもらって充電したらでいいから、結果として負けてもいい、存分に立ち向かえ。面と向かわずに避けていれば、負けないで済むが、逆に勝つことも出来ないのだから。

※なんで、今更、こんなことを考えたか?というと、これはおそらく、昨日、吉村明美の「ようこそ青〈ブルー〉」を読んだせいなのだ。。。

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