6月の新刊リストを公開しました

ギリギリになりましたが、6月分の新刊リストを公開しています。
来月の個人的なお楽しみは、なんといっても森薫さんの「乙嫁語り(2)」でしょう。もう、アミルが好きすぎて困る。

Lucid Lynx と fit-pc2

Ubuntu 10.04 LTS リリース | Ubuntu Japanese Team

GW前半は、常用のノートPCのOSを、かねてから待ちかねていた Lucid Lynx へアップグレードする作業と、小型PC fit-pc2 のインストール/設定で過ごしました。
後半は家族で旅行に出かける予定です。

Lucid へのアップグレードは、ちょっとっ、あなたっ!フォントがきたなくなっちゃったぢゃないのっ!というぐらいで、それほど大きな問題はなく、昔のことを思い出すと、え”~、というぐらい拍子抜け。いろいろなユーザーが増えていることを考えると、これが当たり前の振る舞いなのでしょうけれども、せっかく身構えていたのになぁ、と、少しだけ残念です。

fit-pc2 のほうは、おうちサーバのでんちゃんから、内向きの機能を分離/移行させました。まだ、でんちゃんとの両輪で運用しています。これ、小さいけれども、ごくごく普通のPCなのですね。前段同様、時代が変わったのだなぁ、と感じることしきりです。

今のところ、dhcpd/named/postfix/dovecot/sshd/samba/mt-daapd/mediatomb の各サーバとして動いています。夏の暑さにも耐えられるかどうかを見てから本格運用を開始する心づもりでいます。

imap サーバを、dovecot に変更するので、どうせならとメールの保存形式を、Maildir 形式に変えてみたのですが、Maildir 形式では、どのような構成でメールが保存されていくのかよく分かっていなかったせいで、procmail でのメールの振り分けで、少々はまりました。
docs 読んでも、いまいち、どんな感じなのか掴み辛かったのですね。で、あいかわらず、論よりrunな体質なので、クライアント側の thunderbird からフォルダやサブフォルダを作成してみて、$HOME/Maildir 以下を、ls -a で覗いてみて、あぁ、そうなのか、と納得した次第です。

mbox 形式からの変換は定評のありそうな、mb2md で実行したのですが、mh形式でたくさん保存していたメールの移行はどうするかな…と悩んだ結果、家族のメールには mh形式のものはなく自分のものだけなので、ダメだったら後でなんとかすればよいし、というノリで、thunderbird のクライアントからサーバー間の移動を試してみたら、問題なく移動ができてしまい、これも、また時代なのだなぁ、と思ったのでありました。

4月新刊リストは公開済みです。

いろいろと忙しない期末でございます。
(いつものことですが、)お知らせが遅くなっておりますが、4月分の新刊リストは公開済みです。

カトウキカク

[加藤和恵]

3月の新刊リストを公開しました

昨日、新刊リストを公開しております。ぎりぎり〜。

3月分はうちのお嬢さんといっしょに新刊チェックしました。母娘でどちらも読んでいる部分についての購買計画会議(?)

今月の個人的なお楽しみは、曽根富美子さんの傑作選でしょうか。「娚の一生(3)」も楽しみです。つぐみさんラブ。

従容と従ってやる義理はない

日本の軍歌が、なぜあんなに短調なんだ?と言う意見を読んで思い出したのは、内田樹さんの日本辺境論だった。
あの主体性のなさとか、被害者的哀愁だとかは、どこか外側に絶対者がいて、自分はその波に揉まれるだけだ、と、普通に刷り込まれてるからだろう。辺境人のメンタリティだな。
で、無意識に、理不尽に耐えることは美徳であると思い混んでるんだよな、うん。

だが、しかし、ここまで欧米化しといて、その態度は卑怯だろう。だいたいの場合、運命なんかじゃなくて人の所業である、と気づいているはずなんだから、理不尽と闘わないことは理不尽を助長することを許していることになる。わしらは、もう無力な無辜の民なんかじゃない。従容として従ってやる義理などないってことだ。いつまでも母親の背中の後ろに隠れている訳にもいくまいて。

資本主義とは相性が悪い

そんなことを訊かれても (内田樹の研究室)

ぐえぇぇぇ。と、思わず。
資本主義と子育ては相性が悪い…ってことかいな。過ぎたるは及ばざるが如しってか。たしかに「もし、このまま進めば…」とは、よく考えるけれども。

あけましておめでとうございます

tora

あけましておめでとうございます。

画像は、お嬢の年賀状用下書きのボツ版です。
どう?と訊かれたので、「尻尾が虎じゃないようだが…。」と言ったら、「だって、ムックルだもん。」と。
「いや、それ、分かる人が少なそうだから止めとけば?」

というわけで、今年も肩の力を抜いて、フラフラとやって行きたいと思います。なにとぞ、よろしくお願い申し上げます。

『AVATAR』を観てきました

大晦日、親子三人で『AVATAR』 をIMAXシアターで観てきました。3D映画を観るなら、IMAXがお薦めです、やっぱり。ただ、字幕が中空に浮いた感じが最初、慣れなかったので、人によっては酔ってしまうかも。

なんというか、いろいろと思い出すものがあり、でも、それが嫌な感じにならないのが、キャメロン監督かなぁ、と。おもしろかったです。

個人的には、「もののけ姫」で「ラピュタ」かと思ったら、「パーンの竜騎士」で、「火星のプリンセス」で、「Dune」で、「ナウシカ」で、王蟲が怒っていたな…という感想です。うん、そんなキャメロン監督が好きよ。

※ジェイクが「騒がしい子ども」と見なされてたところなんて、ポウルとチャニの出会いを思い出すよなぁ…

※ジェイクがネイティリに所有格をつけて怒られるというエピソードがあったらより萌えたんだがなぁ、と妄想してしまった。

※”I see you” って台詞には、「エイラ」のエピソードを思い出したな。「狩り」の意味づけも。

※最後の最後で「ヤマト(TVシリーズ)かよっ!」と突っ込みそうになった。

日本辺境論-辺境のままでいいじゃない

『日本辺境論』日本辺境論を読んだ。たしかに、日本人は辺境人かもしれないなぁ、と思った。

で、読んでいる間、ずっと、頭の右の隅のほうでチカチカしていたのは、「あれ?もしかして、女であるということは、ここで言ってる『辺境」とすごく近い?」ということだった。
欧米でも、中華でも、もちろん日本でも、わたしらオンナは、「中央」には居ない。どうしようもなく、辺境を内面化しているのかもしれない。
どっちが鶏で、どっちが卵だか分からないが、わたしらはずっと、未来に何があるか全然分からない状態で、不確かな情報をもとに「子どもの父親」を選択しなくちゃならないという、そういう業をずっと背負ってここまでやってきた。そういう「飛び込む」姿勢を、自分のなかに受け入れやすい状況にある。わたしらは決断できる。信じられないほど少ない情報のなかでも(ほんとかよ?)まるで、辺境人が「学び」を自分のなかに受け入れたように。その論理体系は、男性たちが作り出したそれとは違うけれど、それでも別の体系には違いなかろう、と、わたしには思える。

結論はやっぱりいっしょだったりする。
『辺境』だっていいじゃない。わたしらにしか出来ないやり方でやってみせようじゃないの。それは、もう一つの選択。『中央』には到底できない、オルタナティブなやり方。もしかしたら、「それが正しかったこと」は未来に証明されるかもしれないのだし、ね。

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