乗り越えろ。立ち向かえ。

こち駒~こちら世田谷区駒沢公園横の大学: 「世界に一つだけの花」だって努力はする

ちょうど、朝、電車のなかで似たようなことを考えていた。
何も努力をしないままで、「そのままの自分でよい」なんて安住はするな。立ち向かえ、と。

こちとら、今の年齢に至るまで、ついにお花を咲かせるまで行けてないテイタラクだが、毎日、家族を食わせていくために世の荒波に立ち向かわねばならないということは理解している。だって、これを止めたら、家族が路頭に迷う。

確かに、確かに、ほんとうに確かに「自殺するよりは引きこもる」ほうが健全だと思うが(それはもう、真剣に心の底から同意しているが<しつこい)、それでも、引き篭もりが許されていて飢え死にしないですんでいるのは、本人に引き篭もっていても自力で食える甲斐性があるのではない限り、食わせてもらえるという甘えがあるからだ、と思う。金銭的なことだけを言っているのではない。子供じゃないのだったら、せめて、家の中の雑事だけでも、自分で自分の面倒を見るぐらいのことはしながら引き篭もってみせろよ、と思ったりする、という話だ。(いや、まぁ、それが出来ないから引き篭もっているのだろう、とは思うが。無い袖はどんなにしても振れまいし。しかしなぁ、永遠に支え続けるというのは、無理なのだよ。共に沈んでもよい、と思えるかどうかは、人それぞれなんだろーが。)

もちろん、甘えることが、すべて悪いと言っているわけではない。誰かに甘えさせてもらわなければ乗り越えられない状況というものに陥ることがあるのは分かるし、実際に自分も陥ったから、そういうときに、一人で孤独にがんばれなんて言えない。生き延びるためには、存分に甘えなければならない。
ただ、(そういうときに選んでいる余裕なんぞないとは思うが、)掴まるモノを間違えてはいけない。下手をすると、いっしょに沈んで終わりだ。

ただ、たぶん、自分にとっては耐え難い不幸であったとしても、その程度の不幸なんて、ただの「どこにでも転がっている不幸」に過ぎない、と思うのだ。

その程度の不幸なんて、今も昔も、どこにでも転がっている。かつて、誰かが乗り越えた不幸に過ぎないのだ。甘えさせてもらって充電したらでいいから、結果として負けてもいい、存分に立ち向かえ。面と向かわずに避けていれば、負けないで済むが、逆に勝つことも出来ないのだから。

※なんで、今更、こんなことを考えたか?というと、これはおそらく、昨日、吉村明美の「ようこそ青〈ブルー〉」を読んだせいなのだ。。。

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