日本辺境論-辺境のままでいいじゃない

『日本辺境論』日本辺境論を読んだ。たしかに、日本人は辺境人かもしれないなぁ、と思った。

で、読んでいる間、ずっと、頭の右の隅のほうでチカチカしていたのは、「あれ?もしかして、女であるということは、ここで言ってる『辺境」とすごく近い?」ということだった。
欧米でも、中華でも、もちろん日本でも、わたしらオンナは、「中央」には居ない。どうしようもなく、辺境を内面化しているのかもしれない。
どっちが鶏で、どっちが卵だか分からないが、わたしらはずっと、未来に何があるか全然分からない状態で、不確かな情報をもとに「子どもの父親」を選択しなくちゃならないという、そういう業をずっと背負ってここまでやってきた。そういう「飛び込む」姿勢を、自分のなかに受け入れやすい状況にある。わたしらは決断できる。信じられないほど少ない情報のなかでも(ほんとかよ?)まるで、辺境人が「学び」を自分のなかに受け入れたように。その論理体系は、男性たちが作り出したそれとは違うけれど、それでも別の体系には違いなかろう、と、わたしには思える。

結論はやっぱりいっしょだったりする。
『辺境』だっていいじゃない。わたしらにしか出来ないやり方でやってみせようじゃないの。それは、もう一つの選択。『中央』には到底できない、オルタナティブなやり方。もしかしたら、「それが正しかったこと」は未来に証明されるかもしれないのだし、ね。

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