弱さを武器にすることだってできる、わけで。

自分が傷ついたと表明することで、誰かを傷つけることができる、そして、
そのことで相手を自分の望むとおりにコントロールすることができるのだ、だなんて、自分が傷ついていると感じている本人には斟酌する余裕がないというのが大片の見方だろうけれど、それを武器として使うことを、意識的か無自覚的かは別として、ひとつの方法として身に付けている人々がいる、というのは確かなのだと思う。弱者には弱者なりの勝ち方がある、ということだ。特にそれが社会正義なんて顔を纏っているときには。その程度には、世の中は理不尽なのだ(<をいをい)

意識的にやってるほうが始末に負えないが、無自覚的にやっているほうが、えげつなさは上だと感じるあたり、紫野だって相当にひねくれている。もちろん、紫野は、この方法を(時と場合と相手によっては)意識的に利用するし、だからこそ、そのやり方のえげつなさを知っている。めいいっぱい真っ黒なわけで弁解の余地なし、である。

だからこそ「弱いからといって、何をやってもいいわけじゃない」と思う。善悪の問題としてではなく、美意識の問題として。弱いからと言って正しく白いわけじゃない。強いからと言って不正で黒いわけじゃないのと同様に。それとこれとは、実はほとんど関係がない。喰い物にされるのは何も弱者ばかりぢゃぁないんだ。(<かなり、ひどい言い草)

表に見えている、強さ/弱さなんてものは、たぶん、その程度のものなんじゃなかろうか。本当に心底弱っている時は、自分の弱さを喧伝することも出来ない(それが恐怖から来るものだったとしても)と、覚えているから。(だから、目を凝らして、よく見ろよ。だまされてはいかん。騙せるのは技量、騙されてみせるのは度量だが。)

まぁ、そんなわけで、訴えることができるだけの力が残っている場合は、それだけでもだいぶ幸運だと思うし、その幸運を上記のように、えげつない方法で利用しても許される(場合がある)、と嘘ぶいたりもするのだけれど。

これはこれで、ある意味、弱肉強食の世界のひとつの側面と言ってしまおうか(笑)。

※ 相手の良心に期待してはいけないって? だって、そんなものを持ってないかもしれないんだものね。もちろん、それもまた、弱肉強食の世界のひとつの側面、なんだよ。

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