Ubuntu という言葉
紫野も、前の前のヴァージョンから、Ubuntu を試しに導入してみているけど、たしかに、いままでのディストリビューションとは感触が違う。でも、まだ、常用の環境として使うには今一歩、という感じかな。だからと云って「Vista礼賛」ってわけぢゃぁないですが。
現在の常用は、Vista。(だって、新しいノートを買ったら、プリインストールされていたんだもん。)
遅いし、使いづらいところもあるし、まだまだ、日々なにかしら不満に思うところがある状態。でも、じゃぁ、Ubuntu を毎日使うか?というと、使わない。どっちのOSでも、常用しているソフトウェアは、ほとんど変わらないのに。そういうレベルの違いなんだろうなぁ。。。うまく云えないけれど。
まぁ、適材適所というか、Linux を使ったほうが楽な作業は、常時立ち上がっている、おうちサーバのでんちゃんとか、その上で動かしている VMware Server で動かしている Ubuntu を使うので、「いいとこどり」をしている。
で、この記事を読んだついでに、「Ubuntu」という言葉の意味を、初めてWikipediaで調べてみて、をを、これは、すごい意味を持った言葉なんだな、と、びっくり。
アフリカのアニミズムの考え方を根元に持っている言葉みたい。古来からの Hospitality(旅人は歓待される)も、ひとつの側面なのかな?とか、日本語で言うと「和を以って尊しとなす」とか(聖徳太子は政治的なスローガンとして使ったのだと思っている)、「仁」の心に近いのかな?・・・とか。
日本を意味する「和」という言葉。和は、「倭」であって「輪」であって「環」であって「吾」である。。。というようなことを、つらつらと考えてみる。
わたしは世界と溶け合いながら、かつ、静かにわたしとして立っている。わたしは世界にわたしを与え、世界はわたしに世界とわたしを与える。わたしは、ひとりのわたしであって、かつ、世界の一部で、また、世界の全体だから。
なにものも、わたしを脅かすことはできない。外からやってくるものであれ、また、自身の内側からやってくる何かであれ。わたしは他者を脅かさない、かつ、他者もわたしを脅かさない。わたしたちは同じものであり、かつ、違うものだから。
わたしの痛みは世界の痛みであって、世界の痛みはわたしの痛みである。そして、わたしたちは、常に共に在る。
与えることは、同時に、与えられるということでもある。奪われるものはなにもない。エネルギーは、あらゆる形をとって循環する。
紫野のサイトの favicon が、Triskelion なのは、そういう意味だったり(笑)