なんとなく、うれしい
ヒトゴトだけど、うれしい。そういうものに出会えたときは、なんだか、自分も浮上するよーな、気がする。(たぶん、気のせいなんだけどね。)
子供が産まれたあとのほうが幸せ、というのは、たぶん、紫野も、ほとんどいつも感じる。(なぜ、「たぶん」? そりゃぁ、これも、依存かもしれないからさ。)
これまでも、これからも、よくないことはある、でも、よいこともある。いつか、おそらく、お春の年齢を考えたら、それも遠くない未来に、「産んでくれなんて頼んでない」とか「誰が生んでくれと頼んだんだ」とか、詰め寄られる日が来るかもしれない。それでも、たぶん、子供が産まれてきてくれて幸せだ、と思うと思う。言われたら、悲しむと思うけどさ。たぶん、おろおろするんだろうと思うんだけど。(圧し掛かられると、重くて苦しくて腰が痛くて、鬱陶しいが、大好きなんだよ。そういうこと。笑)
ずっと昔に思えるほどのちょっと昔、紫野にも自分の親(特に母親)を、そんな風になじりたかった頃があった。結局、言わなかったけれど。(親のことを考えたわけじゃなく、「食わせていただいている自分」のことを考えたから止めたのだ。)
だから、たぶん、お春が紫野にそう詰めよりたくなる時だって来るだろう。実際にお春が紫野にそれを言うかどうかは分からないけど、そう考える日が来るだろうことは疑ってない(だって、親子ほど年は離れているが、親子で血がつながっていて、かつ、紫野が育てているんだよ? 苦笑)
最初から親になってる人間なんて、きっと、いない。子供に親にしてもらうのだ。そして、それは、まったくのところ、いつまでたっても、じぇぇんじぇん、完全じゃぁない。たぶん、それこそが、親になって子供に教えられることの肝なんじゃないかと思う。完全じゃぁないけど、それでも親は親をやらなければならない。親だからな・・・、というレベルが、たぶん、一番、多いのじゃぁないだろうか。(<なんの、慰めにもならし、なんのエクスキューズにもならんな。)