痛い世の中
いろいろな揉め事が世の中にはある。
最近、とみに、暴言だとか誹謗中傷だとか、モンスターペアレントだとか、ハラストメントだとか、クレーマーだとか、社会的正義とか、公共の福祉(<これは違うか)という話ばかりが耳に入る。
最近になってそういう現象が増えたのか、もはや我慢すべきではないという主張が広まってきたからなのか、それとも単に昔っから、この種の出来事はやはり同じぐらいの頻度/密度で発生していて、ただ、耳に聞こえる範囲が広くなっただけなのか、その手のネタが売れるから(他人の不幸は蜜の味)ことさらに流されるのか。これらのどれでもないのか、いろいろと複合しているのか…。はてさて。
これは誰に向けてのメッセージなのか意味不明(<いつもだ)なのだが、なんとなくもやもやとするので書いておく。
自分が被害者である(だから償われるべきだ)と主張する場合、自分が加害者でもあると認めるのは都合が悪いので、ほんとのほんとにどう思っているかとは別のところで、被害者であることを強調するのは仕方がない。だけれど、それは勝つための戦術であって、ほんとに欲しいものは、もしかすると勝つことじゃないのかもしれない。分かってやっているならよいのだが(たぶん、大方はそんなことは重々承知でやっているわけだ)、分かってないと、後で呆然とするかもしれないよなぁ、とおばさんは老婆心ながらも、思う。
いや、つまり、どのような場面や立場においても圧倒的に常に被害者/弱者だなどとということは、たぶん、ありえない。だから、ひとつの/いくつかの面で被害者/弱者だという理由で、すべてが免責されるわけではない。「そんなこたぁ、理由にならねぇ」ってことは、けっこうたくさんあるって、当たり前。
だからといって、ちょっとでも加害者になったことがあるのだったら、失われた/奪われたと信じるものを取り戻す権利はない、と言いたいわけではない。それをやることには、大きな意味がある。(たとえ負けても。)
(いや、周りへの影響を考えると、「やり方」はもうちょっと考えて欲しいな、というのも個人的には本音だが、そういう時にいっぱいいっぱいになってる本人に求めても酷というものだ、というのも大概。ただし、どんな時にも、やっぱ、暴力はよくないと思うよ。)
ただ、なんというか、「世は相身互い」って思ってたほうが生きやすいんじゃないかな、という話なのである。
あと、単なるテクニックの話なのだが、自分の足で立って言葉を話すようになって以降には「痛くない世の中」なんぞあるかよ、という前提で生きてたほうが、ショックは少ないと思うんだけどな、というのもある。(なんか、この世の中には、「傷つきやすい」人が多すぎて、みんな、疲れないかしら、と真剣に悩んでいるんだけど。自分のことに関しては不感症ぐらいのほうが、生きやすいと思うぞ。どうせ、自分のことだけは敏感に感じるように出来てるんだからな。)